『フェーズフリー』を通じて、新しい何かを生み出す“人の動き”をデザインする

兵庫県立大学大学院減災復興政策研究科 教授

阪本 真由美さん

フェーズフリーアワードの審査委員を務める阪本真由美さん(以下:阪本さん)と、フェーズフリー協会代表理事の佐藤唯行(以下:佐藤)による防災や『フェーズフリー』などに関する対談が行われました。国際政治や減災復興政策などの分野に関する豊富な知見、さらには国内の被災地のみならず世界の紛争地での経験を有する阪本真由美さんが抱く未来への想いとは?

※対談はマスクを装着し行なっておりますが、撮影用に一時外している場合がございます。

写真・文:西原 真志

阪本さんとの対談-1

これまでの阪本さんの歩みなど、さまざまなことを語っていただきました

紛争地での体験と、防災を志したきっかけ

―― 佐藤
阪本さんは現在、兵庫県立大学の大学院において減災復興政策の研究や防災の人材育成に尽力していらっしゃいますが、どのような経緯でそのような道を志されたのですか?

―― 阪本さん
もともと防災を研究していたわけではなく、国際政治学からのスタートでした。国と国の関係を見るのが国際政治学ですが、私の学生時代は東西冷戦が終結しつつあるタイミングで、ベルリンの壁が89年に取り壊され、イラクのクウェート侵攻、コソボ紛争もあり、緒方貞子さんが難民高等弁務官として活躍されたというように、国際情勢が活発に動いた時代でした。私自身は、独裁政権が民主主義政権に変わっていくものの、どのような仕組みで民政への体制移管が果たされ、紛争が終結するのかという点に関心があり、修士課程ではその研究をしていました。

―― 佐藤
学生時代は自分の将来の職業についてもイメージはありましたか?

―― 阪本さん
大学においても国際政治学や国際関係学、国際協力学など、新しいジャンルの国際的な研究が生まれてきた頃で、将来は国連職員になりたいなと思っていました。大学院の研究科として国際協力研究科が初めて名古屋大学と神戸大学に創設されて、私は神戸大学の国際協力研究科に入学しました。入学後しばらくして「海外の大使館で専門調査員のポストがある」と紹介を受けて、それが中南米の日本大使館での専門調査員という職だと分かり、調査研究をしながら世界の情勢にも触れられると魅力に感じました。

―― 佐藤
どこの国の大使館だったのですか?

―― 阪本さん
まずは、キューバという話を受け、チェ・ゲバラやフィデル・カストロに興味を抱いていたこともあり希望したのですが、中米のエルサルバドルという国がさらに切実に職員を必要としているとの話がありまして、詳しく知らない国でしたがすんなり話が進み、大学院を休学してエルサルバドルの大使館で仕事を開始することになりました。

―― 佐藤
海外で仕事をしての第一印象はどのようなものでしたか?

―― 阪本さん
当時のエルサルバドルは、内戦が続き本当に大変な状況でした。私が着任したのは和平合意が締結された翌年で、まだ銃器が街中に出回っており、紛争の真っ最中といった雰囲気で、大変なところに来てしまったと思いました。あと、日本の常識が世界の常識ではない、ということも強く感じました。

―― 佐藤
それまではいわゆる日本の大学生だった女性が、いきなり紛争地のような場所で暮らし、仕事も始まったという。

―― 阪本さん
そうです。私はのほほんとした女子大生だったので(笑)、紛争があった地域に対する実感が持てていませんでした。銃器が出回る中で生活するとか、夜間外出禁止令が出されるとか、移動するのも極力歩いての移動は避けなさいとか、さらには爆発テロが日常茶飯事みたいな状況でした。
そんな、エルサルバドルに渡った1ヶ月後くらいのことでした。日本で阪神・淡路大震災が発生したんです。

―― 佐藤
阪本さんにとっても非常に身近な場所ですよね。

―― 阪本さん
はい。同級生や友人もたくさんいましたし。私は大使館で働いていましたので、エルサルバドルに在留されている方のご家族の安否確認に走りました。大使館に届く行方不明者のリストは最初は数十人単位だったのですが、徐々に数百人単位になり、気づいたら数千人単位になってと、いったい神戸はどうなってしまったのだろう? という状況でした。

―― 佐藤
私は当時、防災の研究室に属していました。朝5:46の発生後、情報がアップデートされる度に被害の大きさもどんどん膨れ上がっていくような状況で、どうなるのか想像もつかなかったという記憶があります。阪本さんの身近な方も被害に遭われたのですか?

―― 阪本さん
いっぱいです。

―― 佐藤
それが災害や防災を考えるきっかけになったのですか?

―― 阪本さん
実は、阪神・淡路大震災が、直接的なきっかけというわけではありません。防災を考えるきっかけとなったのは、帰国後に就職したJICA(国際協力機構)青年海外協力隊事務局で勤務していた際に、青年海外協力隊を派遣している先の中米の国でハリケーンや地震による災害が続いたことです。被災地にどう技術協力を行うのかを考えるなかで、阪神・淡路大震災をよく知っていたことが、防災分野における技術協力の必要性の認識につながりました。また、国際緊急援助隊(JICA)の業務調整員研修を受けていたので、災害時の国際緊急支援がどのようなオペレーションで動くのかを間近で見る機会もありました。

―― 佐藤
なるほど。

―― 阪本さん
そのようななかで、2002年にJICA兵庫(現JICA関西)への転勤が決まりました。5年ぶりに神戸に戻って、その時までは、神戸は私の中では「被災地神戸」という印象だったのですが、久しぶりに戻ると防災復興の知見を発信する神戸に転換しつつありました。現在、私が勤務するキャンパスがある『人と防災未来センター』が、JICA兵庫の隣に開設されたタイミングでした。阪神・淡路大震災の知見は国際協力の柱になる、ということを強く認識させられました。そこから防災への道を歩くことになった感じですね。

復興の知見は、国際的な支援へと進化する

阪本さんとの対談-2

対談はフェ−ズフリー協会の会議室で行われました

―― 佐藤
阪神・淡路大震災から5年後の復興過程にあった神戸は当時、「創造的復興」と言われました。僕はそれにすごく関心を持ちました。

―― 阪本さん
「創造的復興」を提唱したのは貝原俊民(元兵庫県知事)さんですね。

―― 佐藤
そう、その後には「ビルドバック・ベター(より良い復興:災害に対して強靱な地域づくりを行う)」と呼ばれました。そのあたりの知見が、国際的な支援につながっていくと気づいた訳ですね。

―― 阪本さん
つながりましたね。JICAの職員として働いていたときは、「専門性」と「地域性」の二つの柱が必要とされていました。私は、「地域性」については中南米での勤務経験もありよかったのですが「専門性」がなく、自分自身の専門性として復興・防災というベクトルがあることを感じました。
また、日本は災害が多い国ですので、それを柱として日本の国際協力を展開することは日本だからこそできる国際協力のアプローチだと考えていました。JICAには国際緊急援助隊の事務局がありますが、災害発生直後の国際援助があったとしても、そこから復興支援につなげていく仕組みがなかったので、だったらそれらをもっときちんとやらなくてはと思い取り組んでいましたね。
とはいえ佐藤さんのように、もともとが防災の専門家ではないので、より防災の専門性を高めたいと思いJICAは退職し、博士後期課程で防災を研究し今に至ります。

―― 佐藤
今の話を聞くと、防災の中のどちらかというと被災した後、つまり、どのようにその状態から社会が立ち直って行くのか、というところに関心を持ったということですね。今もそこに関心があるのですか?

―― 阪本さん
そうですね。被災者支援とか、被災地の復旧復興にすごく関心がありますね。

―― 佐藤
そもそも災害を起こさないというところではなく、その後のアクションという点に?

―― 阪本さん
もちろん事前の取り組みも大切なので、ふだんは事前防災対策で、その後は災害対応、復旧復興まで視野に入ってくるイメージです。

―― 佐藤
阪本さんが元々見ていた景色というのが、国際政治、そして、先ほどのベルリンの壁の話や中南米の民主化されていく地域・紛争地帯だった。紛争などで荒らされ、生活や社会が壊滅的な状態になって、そこから復興していく社会と、今阪本さんが専門としている自然災害だとかサリン事件のような人的な災害などから復興するところに、違いって何かありますか?

―― 阪本さん
紛争地での復興というのは、人と人との関係性がとにかく難しい。かつては敵だったり憎しみを持っていたりするような人たちと、どう一緒に暮らすのかを考えなければならない。

―― 佐藤
紛争は、街のインフラが壊滅してそこの人々の生活が困窮している状態までは自然災害と一緒かもしれないけれど、そもそもの人と人とのつながりみたいなものが壊れてしまっている。そこが、紛争と自然災害との違いですね。
先ほど「復興の知見」という話がありましたが、日本は復興の知見が非常に高い。それは一体、どのような理由であると捉えていますか?

―― 阪本さん
二つあると思っています。一つは、被災経験を残し伝えてきた歴史があり、歴史を通して過去の復興を学ぶことができる仕組みがあること。そしてもう一つは、海外との関わりを通しての学びを大切にしているからだと思います。
私のキャンパスがあるHAT神戸は、阪神・淡路大震災の復興過程に神戸市中央区に開発されたエリアです。さまざまな防災の機関が集まっていますが、これは、日米防災会議においてアメリカのスミソニアン協会を見習って、日本にもそのような知の発信拠点をつくる必要があるという提言に添って開発されたからです。海外との関わりの中で得たことは日本の復興の知見を構築するうえでも、影響を及ぼしていると思います。

コミュニケーションが取れる社会ほど、非常時に強い

阪本さんとの対談-3

『フェーズフリー』という言葉から「ふだん意識していないものが実は大事である」という印象を受けたと話してくださいました

―― 佐藤
地域のGDPの30%を超えた被害が発生すると、その地域だけでの復興は難しいとよく言われます。例えば日本の場合は首都直下地震だとか東海・東南海地震が起きたときに、それは日本という単位ではもはや復興ができなくなる。そのクラスの災害が起きたときには、阪本さんが言われたように国際的な協力だとか国際的な環境の中で立ち直っていくしかないんですね。
阪本さんは事前防災、それからさまざまな復旧・復興の現場や紛争地などを見てきた中で、そのような地域にどうなってもらいたい、といったような望みはあるのですか?

―― 阪本さん
中米に最初に行った時は銃器が出回っていて、日本では考えられないぐらい死が近いものでした。 災害も同じく死が身近で、阪神・淡路大震災や東日本大震災でも、あまりにたくさんの方が亡くなってしまいました。やはり、災害で人が亡くなることがない社会が大切だと思います。人の命はとても大切です。

―― 佐藤
阪本さんが今おっしゃってくださった想い、要は災害などで亡くなることがない社会をつくりたいって、その気持ちを否定する人はいないと思うんですよね。でも、現実の社会がそうなっていかないのは、どこに課題があると思いますか?

―― 阪本さん
“他人ごと”みたいなところがあるからだと感じています。学生時代に防災研究をするなかで、インド洋津波災害の被災者の方々にインタビューをしたことがありました。話を伺うと、その一つひとつが壮絶で悲しくて…。話を聞いているうちに、 “他人ごと”じゃなく、“自分ごと”だと思ったんです。

―― 佐藤
インタビューを受けた方が“他人ごと”だったのではなく、自分自身が“他人ごと”だったんじゃないかと感じた?

―― 阪本さん
そうです。日本は災害は誰でも“自分ごと”になり得る社会なのに、なぜか“他人ごと”にしてしまっている。日本は地震もあれば火山もあれば水害もあって、どこで誰が何にあうかわからない。それなのに、“他人ごと”なんですよね。

―― 佐藤
阪本さんと自分は全く違う人生を歩んできましたけれど、それぞれの歩みの結果、同じような課題にぶち当たった気がします。苦しみ・傷つき・亡くなっていくこんな社会を何とか解決したいと、同じく思っている。多くの誰もがそう思っているけれど、結局“他人ごと”になってしまって、そこへの具体的な取り組みができていない。今日話をしていて、その矛盾を解決しようとしたのが『フェーズフリー』なんだと、改めて自分でも感じました。阪本さんにとって『フェーズフリー』の印象はどのようなものですか?

―― 阪本さん
私のイメージは、ふだん意識していないものが実は大事である。『フェーズフリー』という言葉から、そんなイメージを受けますね。 阪神・淡路大震災が発生して、ふだんからまわりの人と「挨拶すること」が大事で、いざというときの助け合いにつながると言われましたが、そういうことですよね。東日本大震災でも、家族にどこに行くのか、ひとこと言って出かければ良かった、という話も聞きました。

―― 佐藤
そうですね。阪本さんが考える災害に強い地域とは、どんな特徴がありますか? 今のように「挨拶がきちんとできている」とかですか?

―― 阪本さん
人のつきあいが密な地域、それから地域の資源が豊かでふだんから自立していけるような地域は災害に強いと思います。海外は日本と違ってライフラインがあまり整っていなくて、停電したり断水したりは日常的です。そうすると、停電したときのためにロウソクや懐中電灯があったり、発電機があったりしますよね。そのような備えがあると、災害時には逆に強かったりする。人のつきあいが密な地域、それから地域の資源が豊かでふだんから自立していけるような地域は災害に強いと思います。海外は日本と違ってライフラインがあまり整っていなくて、停電したり断水したりは日常的です。そうすると、停電したときのためにロウソクや懐中電灯があったり、発電機があったりしますよね。そのような備えがあると、災害時には逆に強かったりする。
神戸は都市部で、電気も何もかも自分で努力しなくて手に入る環境だった。そういう地域は災害時には弱いですよね。人と人との関係性も密じゃないですし。

―― 佐藤
日本人の今の暮らしを前提として、阪本さんがこれまでに見てきた、災害対策のよき事例となるような地域社会のあり方みたいなものはありますか?

―― 阪本さん
日本は、人に対して優しい、気配りがある人が多い国だと思います。他人のことを気にして、時には他人を優先して自分は遠慮するところもあります。だから、避難所での生活は大変になる。とはいえ、避難所が開設されると必ずお手伝いしてくださる方とか、他の方のために一生懸命動いてくださる方がいる。災害時には必ず支援してくださる方がいて本当に有難くて、日本はすごい社会だなと思います。

―― 佐藤
なるほど。最近は“ソーシャル・キャピタル(社会関係性資本)”などと表現されたりしますが、要は地域が日常時から繋がり支えあえるような、コミュニケーションが取れる地域社会であればあるほど非常時に役立つという感じでしょうか。

―― 阪本さん
とはいえ、最近は、そのような地域が少なくなり、積極的に構築していかないと実現できないように感じます。かつては学校が地域の中心であり、運動会やお祭りなどの行事が地域との支え合いで行われていましたが、今のように過疎や高齢化が進んでしまうと、学校が廃校になってしまい地域を結びつけるものもなくなってきている。そういうのは心配ですよね。

阪本さんとの対談-4

約2時間におよぶ対談を終え笑顔の阪本さんと佐藤

『フェーズフリーアワード』が、人と人をつないで、新しい何かへのきっかけに

―― 佐藤
その意味では、町でお祭りができるとか、町で何か催しができるというのは、本当に大切で重要だったりしますよね。

―― 阪本さん
お祭りができる社会はいいですよね。純粋に楽しいということもありますが、賑わいを生むだけでなくって、その先のいざという時に何かの助けに繋がる。佐藤さんと話していて、そんな風に感じました。

―― 佐藤
そう考えてみると、阪本さんにとって、『フェーズフリー』という視点を取り入れてみたら解決できそうなこととか、活動しやすくなりそうといったことはありますか?

―― 阪本さん
結局は、人が大事だと思います。モノじゃなくて、人と人とがつながれる、そういうところが大事かな。人がいて、社会が存在するので。『フェーズフリー』にも人と人のつながりが大切なのではないでしょうか。

―― 佐藤
そうですね、人と人とのつながりを生み出すような仕組みが重要ですね。

―― 阪本さん
災害支援も似たようなところがあって、被災地にボランティアが来ることによって、それまでまったく関わりのない何かがつながったり、新しい取り組みが生まれたりすることがあります。思いもよらないつながりができることで、世界が広がっていきます。

―― 佐藤
確かにそうですね。一つヒントをいただいた気がします。阪本さんに今回フェーズフリーアワードの審査委員を担っていただきますが、全国から多様なアイデアが集まってくる中で、阪本さんが見てみたいとか、何か期待していることはありますか?

―― 阪本さん
ふだんは全然関係のないものがつながれたりだとか、まったく異なる業界同士がつながれたりだとか、そういうことが起こると面白いですね。情報交換にとどまらず、その一歩先へ行くような、新しい何かが生まれると面白いなと思っています。人と人がさらにつながるような。

―― 佐藤
紛争地や被災地も含めて、主人公はやはり“人”だった、ということですね。人々の心の豊かさだとか安心・安全みたいなものをつくろうと思ったら、人が日常豊かになれて非常時も助かるものが必要なんだ、ということだと改めて感じました。

―― 阪本さん
いろんなアイデアが生まれ、新しいつながりがどんどん広がっていくような、動きをつくりだすことが大切ですね。フェーズフリーアワードがそんな機会になれば良いなと思います。

―― 佐藤
本当にそうですね。本日はありがとうございました。

―― 阪本さん
ありがとうございました。

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