『フェーズフリー』を柔らかでしなやかなものに

アナウンサー

武田 真一さん

フェーズフリーアワード2023のシンポジウムでファシリテーターを務める、フリーアナウンサーの武田真一さん(以下:武田さん)と、フェーズフリー協会代表理事の佐藤唯行(以下:佐藤)による対談がおこなわれました。NHK在籍時にはニュースキャスターとして東日本大震災をはじめ国内外のニュースを伝え、現在はそれらの経験を元にライフワークとして防災に取り組んでいます。そんな武田さんが捉える『フェーズフリー』とは?
(2023.6 実施)

写真・文:西原 真志

武田真一さんとの対談-1

対談はフェーズフリー協会の会議室でおこなわれました

ニュースキャスターは、ロックな仕事

―― 佐藤
武田さんにインタビューするなんて、すごく緊張するのですが……。世の中のほとんどの人が武田さんをご存じだと思いますけれど、生い立ちから現在に至るまでを簡単にお聞かせいただけますでしょうか。

―― 武田さん
生まれは熊本市の子飼(こかい)という場所です。両親が結婚後にそこに住み始めたんです。それより前の昭和20年代に熊本市内を流れる白川が氾濫する大水害があり、その辺りが一番被害が酷かったんです。住民が屋根の上に登って命からがら救われたという話を幼少期から聞いていました。

―― 佐藤
水害のリスクや怖さを聞かされて育ったんですね。

―― 武田さん
そうです。でもだからといって災害に特別な意識を持って育ったかというとそうではないんですよね。友達と遊び回るという、言ってみれば健全な不良だった(笑)。

―― 佐藤
健全な不良(笑)。そうだったのですか?

―― 武田さん
音楽が好きでスタジオでバンド演奏をしたり、ディスコに行ったりしていました。だから、ツッパリみたいな不良じゃないんですよ。当時からミュージシャンの佐野元春さんの大ファンで、彼の言葉に『ジーンズのケツのポケットに詩集を入れてダンス』みたいなフレーズがあったんです。それを聴いて、あっこれだ! と思って、そんな風ないかした不良に憧れていたんですね。青春時代です(笑)。

―― 佐藤
自分の信念みたいなものがあって、マジョリティーではなく、そことは違う方向に突っ走る感じですかね。そう考えると、今我々がテレビなどで見ている武田さん像とのイメージにギャップがある気がするのですが。

―― 武田さん
いえいえ、自分の中では何も変わってないですね。

―― 佐藤
そうですか、健全な不良に見えないですよ。

―― 武田さん
うっかりすると出るんですよ。

―― 佐藤
なるほど、それはあるのかも知れませんね(笑)。

―― 武田さん
何が変わらないかって言うと、例えばNHKに入局して主に報道の仕事に携わったんですね。ニュースキャスターをずっとやってきました。今でこそ、日本テレビの情報番組『DayDay.』でやまちゃん(南海キャンディーズの山里亮太さん)と面白おかしくやっていますけれども、ずっと報道の仕事が好きだったんですね。なぜかと言うと、ニュースに出演するときは愛想笑いをしなくていいと思ったんですよ。ロックな仕事だぜ!と思った(笑)。
放送にはいろいろな役割がありますけれど、NHKで最も大切にしていたのは人々の生命・財産を守るということです。もう一つが、ふだんのニュースや報道番組で人々の知る権利や民主主義を守るという部分。そしてもう一つが、エンターテインメントやスポーツで人々の心を豊かにする。その3つが放送の大きな機能・役割だと僕らずっと習ってきたんですね。その中でアナウンサーとして、命を守る、民主主義を守るって、最高にカッコいいと思ったんですよね。

―― 佐藤
なるほど。

―― 武田さん
報道というのはクールでカッコいいと思ってやってきた部分があったんですね。その意味では、若き⽇の「健全な不良」というスピリットなまま、今に⾄っているんですね。だからあまり変わってないんです。

―― 佐藤
今思えば、武⽥さんがフリーアナウンサーになられて、たしか『DayDay.』の番宣で健全な不良っぽい発⾔があったと思い出しました。覚えていますか?

―― 武田さん
え、ありましたか? 覚えてないですね。

―― 佐藤
『海は広い⽅がいいぜ』と発⾔されていましたよ。

―― 武田さん
それは、⾔いましたね。NHKに33年間勤めてきて、で、そろそろ定年という区切りが⾒えてきて、なんか旅の終わりって感じがして……。あと少しNHKの中でやりたいこともありましたが、なんとなく寂しかったんですよ。そういう中でふと、フリーになって⾃由にいろんなことやってみようって思った瞬間があったんです。そのときの⽬の前の空が晴れ渡った⻘空で、それが本当にどこまでも続く⼤海原みたいに⾒えて、⽬標やゴールは⾒えないんですけれども、逆にそれがすごくすがすがしくて、もう、最⾼の気分だぜ! って思ったんですよ。

―― 佐藤
そのような⼼境だったのですか。

―― 武田さん
⼈⽣100年で、70歳80歳まで働くっていうような時代に、これから⾃分が何をしていけばいいのか。それを考えた時に、そう思ったんですね。『フェーズフリー』に出会ったのもちょうどその頃だったんです。佐藤さんが⼤阪放送局まで説明しに来てくださった。

―― 佐藤
武⽥さんが災害やメディアの在り⽅などについて活動していることを知り、これは『フェーズフリー』に参画いただきたいと思いお時間をいただいたんですね。

―― 武田さん
話を聞いて、⾃分もまさにそういう活動をしたいと思ったんですね。何というか、⾃分がたまたまニュースキャスターをしているから防災をやるのではなくって、⾃分のライフワークとして、⾃分がこれから献⾝していく⼤きなテーマとしての防災に取り組みたいと思ったんです。これから⼀⽣かけて、⾃分という存在として防災に向き合っていこうと、その⼀つの⼤きな⾜掛かりとして『フェーズフリー』を、ぜひお⼿伝いしたいと思いました。

武田真一さんとの対談-2

武田さんはフリーアナウンサーとして幅広く活躍されています

災害、戦争、環境問題など、激動の時代の報道に向き合う

―― 佐藤
ありがとうございます。そのあたりを詳しくお聞きしたいのですが、その健全な不良であった武⽥さんが、⼈の命を守ることや⺠主主義を守ることなどに携わってこられた。33年という時間の中で、災害、被害、犯罪など、いろんなことが⽬の前を通り過ぎたと思うんです。それらを世の中の多くの⼈に伝えたと思うんですけれども、それを伝える武⽥さん⾃⾝は、どのような感覚になっていくのでしょうか?

―― 武田さん
1990年にNHKに⼊ってそれから熊本局、松⼭局と7年地⽅に勤務して、東京のアナウンス室に移動したんですね。しばらくリポーターをしていましたが、2000年頃から総合テレビの正午のニュースを担当することになったんです。
その中で本当にいろんな災害をお伝えしました。最初は報道はロックだぜとか思っていましたけど、そこには本当にさまざまな⽅々の⽣死がありました。僕らが読む原稿の向こうには⼈々のリアルな⼈⽣や暮らしがあることを実感したんですね。

―― 佐藤
そうですよね。

―― 武田さん
さまざまな被害を⽬の当たりにして、⼼が擦り切れていったのは事実です。ニュースキャスターになって3⽇後あたりに発⽣したのが、北海道の有珠⼭の噴⽕でした。幸いにも⼈的被害は無かったのですが、壮瞥町(そうべつちょう)という町が全部⽕⼭灰などに埋まってしまうという⼤変な被害が出たんです。その後に伊⾖諸島で群発地震があって三宅島が噴⽕するなど、毎⽇緊急地震速報が鳴り響くようなことが重なりました。2004年には新潟県中越地震がありましたし、その前にはニューヨークで9.11、同時多発テロという信じられない出来事も起こった。

―― 佐藤
そのあたりもニュースキャスターとして報道されたのですね。

―― 武田さん
はい。激動の時代でした。緊急報道をしていくにつれて、現地から届く被害の様⼦や、繰り返し流れる泣き叫ぶ⼈たちの姿を⾒て、これから世界はどうなって⾏くんだろうとか、⾃分たちの今住む場所も安全ではないという⼤きな不安みたいなものを、全部背負い込むような、そんな感覚になっていたんですね。

―― 佐藤
そうなのですね……。

―― 武田さん
気持ちとして決定的だったのが、2005年に尼崎で発⽣したJR⻄⽇本の脱線事故でした。朝9時過ぎに発⽣して、私は通勤途中だったのですが、携帯電話が鳴って⼤変な事故が起きていると知らせが⼊ったんです。局に着くと、映像から⼤惨事が起きていると知りました。⽇本の列⾞災害史上で最⼤級の事故になったのですが、初めてスタジオに⼊りたくないと思ったんです。これ以上の悲惨な⾵景を⾒るのは⾟いって。はっきりと、怯んだんですよね。

―― 佐藤
悲惨な光景も⾒たくないし、⾃分に何ができるのかが分からないという感覚でしょうか。

―― 武田さん
そうです。初めてのことでした。⼼が重い状態のまま、その直後に沖縄局に異動になったのですが、そこでまた学びがありましてね。

―― 佐藤
それはどういった学びですか?

―― 武田さん
その頃は本当に疲れ切っていたんですね。それまで⾃分は9.11の同時多発テロのような世界が注⽬するニュースを伝え、そこにやりがいも感じていたんです。でも⼀⽅で、⼀体⾃分は誰にこのニュースを伝えているんだろうっていう疑問を感じることもあったんですね。

―― 佐藤
このニュースを、誰に届けているのかという?

―― 武田さん
そうです。例えば⼤きな災害が起きたら、全国放送で伝えますよね。その時に視聴者の⽅とか我々同僚の中でも繰り返し議論になったのは、誰に向けて放送しているものなのかということでした。当然僕らは被災地の皆さんに向けて放送しているんですけれども、被災地以外の⽅に今起きていることを知らせるという機能も当然必要です。ですから、その⼆つの切り⼝が重要になるわけです。そのバランスを取りながら伝えていくことが、全国放送ではとても⼤切でした。

―― 佐藤
なるほど。

―― 武田さん
だけど、沖縄局のようなローカルに⾏ったら、そこにいる⼈たちへ伝えればいいんですよね。沖縄の⽅々の⽴場や視点で放送ができるんです。それって物凄く明確な放送になるんです。切り⼝がスパッと鮮やかな明確な放送ができるということに、とても⼤きな喜びを感じるようになったんですね。伝える相⼿が隣にいる⾝近な⼈たちという、まさに放送の原点なんです。

―― 佐藤
確かにそうですね。

―― 武田さん
ずっと沖縄にいてもいいなぁと思っていたのですが、2年で東京に呼び戻されました。⼣⽅7時からの『ニュース7』を担当しました。それはまたやりがいのある仕事でした。それと平⾏してスタートしたのが災害に対する取り組みで、アナウンサー仲間と勉強会も⽴ち上げました。

武田真一さんとの対談-3

生い立ちからキャスターの仕事についてなど、さまざまなことをお話しくださいました

さまざまな危機感を共有している現代を、ある意味チャンスと捉えるべき

―― 佐藤
その勉強会は、東⽇本⼤震災よりも前に⽴ち上げられたのですね。

―― 武田さん
そうです。例えば地震が発⽣したらどう対応しどう伝えるかというマニュアルを仲間と⼀緒に整備しました。アナウンサーの意⾒を取り⼊れた地震速報システムを構築してもらったり、さまざまな研修や訓練を実施したりもしました。それである程度⾃信が付いてきた⽮先に起こったのが、東⽇本⼤震災でした。

―― 佐藤
準備を重ねてきて実際に東⽇本⼤震災が発⽣したときは、どのような感じだったのですか?

―― 武田さん
我々が積み重ねてきたことは、実はほぼ遂⾏できたんです。マニュアルどおりにはできたんです。

―― 佐藤
それは、起きた災害に対して報道ができたということですよね?

―― 武田さん
そうです。初動は国会中継の最中だったので、実は国会の現場から始まりました。

―― 佐藤
緊急地震速報から始まり、国会の天井の照明がゆらゆら揺れだしたところがありましたね。

―― 武田さん
現場から佐藤⿓⽂さんというアナウンサーが伝えているんですけど、⾮常に冷静にマニュアルどおりきちっと伝えていたんです。国際的にも⼤きな評価を得ました。それでも私個⼈としては、2万⼈近くの⽅が犠牲になったという事実に、⼼から打ちのめされました。

―― 佐藤
そうですよね。

―― 武田さん
僕らは⼀⽣懸命に取り組んできたのに、命が救えなかった。私は当⽇の15:50頃からスタジオに⼊って地震のニュースを伝えたわけですが、その直後に宮城県名取市の閖上地区を津波が襲う映像が伝えられました。その映像を⾒ながら、絶え間なく描写をしたり、避難の呼びかけをしたりしていたのですが、何を⾔っても命を救えると思えなくて、本当に無⼒感に苛まれたんですね。

―― 佐藤
何とかしたいのに何もできない、打ちひしがれる感じでしょうか。⾃分も防災の仕事でいろんな被災地に触れているので分かります。

―― 武田さん
正直に⾔えば、罪悪感と⾔う⽅が正しいですね。

―― 佐藤
罪悪感という、もはや加害の意識を持ってしまった。

―― 武田さん
そうです。それから数年間、津波の映像は⾒られなくなりました。その無⼒感は今もありますが、でもそうも⾔っていられず、⾃分の仕事の中で何かできることはないか探さなきゃいけない。僕らにできることは何かというと、まずはそこに住む⼈達に⽇常から備えてもらうっていうことだと思ったんですね。どう備えればいいか、さまざまな情報をまず発信して⽇ごろから伴⾛する。そしていざという時は、私たちが伝える⾔葉とか情報によって、その備えを命を守る⾏動に移してもらう。そういった⽇常から⾮⽇常へのモードチェンジに、いかに放送が貢献できるかというのをテーマにしようと考えたんです。でもそれがまた難しくって、こんなことが起こったらこうしようといろいろなことを⾔っても、あまりにも場合分けが膨⼤で、結局何も⾔っていないことと同じではないかという感じがあって。

―― 佐藤
そうですよね。武⽥さんが今、結局何も⾔っていないことになっているとおっしゃったのは、あらゆることなど想定できないし、備えきれないということですよね。

―― 武田さん
そうそう、想定できない。無限すぎるんですよ。

―― 佐藤
そうなんですよね。無限すぎる。

―― 武田さん
それで、勉強会などを重ねてきて、それはそれで重要ですが、何かもっと別の次元で必要なことがあるのではないか。そう思っていた時にお話をいただいたのが、この『フェーズフリー』という概念なんですよね。⽬から鱗のような感じだった。

―― 佐藤
武⽥さんがそこまで悩んでこられたから、『フェーズフリー』に気づいてくださったと思います。『フェーズフリー』は社会の脆弱性を⼩さくしていくわけですが、それは私たちのふだんの暮らし、ふだんの社会の⽣活を⾒直していくという活動につながっていくんです。それは例えば、武⽥さんがやっているふだんの暮らしを豊かにする『DayDay.』の報道の中に、脆弱性を減らし⾮常時にも役⽴つようなアイデアを盛り込むなども考えられますよね。

―― 武田さん
そうなんですよね。⾃分は⼤丈夫だろうという「正常性バイアス」という⾔葉がありますけれど、そんな⼼情がいまだに存在しますし、備えると⾔ってもどこまで何をすればいいかも分からない⼈もいる。そんな⼈たちがいても⼤丈夫な暮らしやシステムが必要になりますが、『フェーズフリー』がまさにそれだと思いました。
でもその⼀⽅で、社会全体がしっかりと『フェーズフリー』になるのも待っていられない、というところもあるんじゃないですか?

―― 佐藤
そう、待っていられない。そのとおりですね。

―― 武田さん
そう考えると、やっぱり当⾯は、両⾯作戦で⾏くしかないのかなと。佐藤さんがよくおっしゃっていますけど、これは本当に『フェーズフリー』なのかな? みたいなものでも、ある程度混在していても良いかと思うんです。とにかくあらゆるものを皆で知恵を絞って、『フェーズフリー』という⾔葉から発想できることを、今はとにかく何でもやればいいと思うんですよね。

―― 佐藤
そうですね。実は『フェーズフリー』の⼀番の⼒って、気づきの連鎖なのかなって思うんです。⼈々の⾃由な発想や気づきの連鎖の中で、もしかしたら武⽥さんが⾒たあの景⾊が、改善していくように脆弱性が⼩さくなっていくような気がしてならないんです。

―― 武田さん
災害や気候変動とか、戦争や疫病とか、そういったものが世界中で起きていますよね。⼈々がある種の危機感を共有している今って実はチャンスだとも思うんです。⼤きな課題とか⽬指すべき社会の⽅向性が⾒えつつあるような、ある意味でいい機会なんじゃないかと思うんですよね。

―― 佐藤
そのとおりです。

―― 武田さん
『フェーズフリー』の定義も確⽴していますが、もっとブレたり変わっていいと思っているんです。『フェーズフリー』が柔らかでしなやかなものになればいいなと思います。

―― 佐藤
同感です。ぜひ武⽥さんにも引き続き⼒を貸していただければと思います。本⽇はありがとうございました。

―― 武田さん
ありがとうございました。

武田真一さんとの対談-4

約2時間の対談を終えタッチする武田さん(右)と佐藤

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