貧困問題も災害も、脆弱性を減らすことが大切

フェーズフリーアワード2023 審査委員
社会活動家/東京大学 特任教授
認定NPO法人 全国こども食堂支援センター・むすびえ 理事長

湯浅 誠さん

第3回フェーズフリーアワードの審査委員を務める湯浅誠さん(以下:湯浅さん)と、フェーズフリー協会代表理事の佐藤唯行(以下:佐藤)による対談がおこなわれました。日本でいち早く貧困問題に向き合いアクションを起こし、現在は認定NPO法人 全国こども食堂支援センター・むすびえ理事長をはじめ、社会全体のさまざまな基盤づくりに取り組む湯浅さん。そんな湯浅さんが捉える『フェーズフリー』とは?
(2023.4 実施)

写真・文:西原 真志

湯浅さんとの対談-1

第3回フェーズフリーアワードで審査委員を務める、社会活動家/東京大学 特任教授/認定NPO法人 全国こども食堂支援センター・むすびえ 理事長の湯浅誠さん

ホームレス支援から「貧困問題」へ

―― 佐藤
フェーズフリーアワードの審査委員をお引き受けいただきありがとうございます。まずは湯浅さんが「全国こども食堂支援センター・むすびえ」で代表をされるに至った背景や経緯をお伺いしたいのですが。

―― 湯浅さん
そうですね、まず1995年から、東京・渋谷でホームレスの支援をスタートしました。阪神大震災の年ですね。ホームレス問題は、私はそもそも差別の問題だと捉えていました。それぞれ人生いろいろあるだろうけども、何もこの豊かな日本で道端で寝るって、そこまでいかなくてもいいじゃないかと。これは差別の問題だと考えたんです。昔からホームレスの方が襲撃されて亡くなる事件も、年に数回は起こっていましたからね。

―― 佐藤
ニュースでたびたび見ますね。

―― 湯浅さん
偏見とか差別の問題と捉えていましたが、90年代は特にホームレスの人たちが爆発的に増えた時期なんです。バブルが崩壊して97年にはアジアIMF危機が起こったり、国内でも山一証券や北海道拓殖銀行の破綻とかいろいろありました。私が活動を始めた95年ごろは、渋谷にいるホームレスの人数は100人ほどでしたが、99年には600人になりました。驚くほどのペースで増えて、何か世の中の底が抜けてしまったように私は思ったんです。

―― 佐藤
それはすごい増加ですね。

―― 湯浅さん
あまり知られていないと思いますが、街にはホームレスのキャパシティというものがあるんです。渋谷は600人が限界で、新宿が1,300、京都は500、神戸は600で、それを超えると誰かが街から追い出されていく。やっぱり寝られるところっていっぱいあるようで限られているし、雨をしのげる場所となるとこれまた限られている。

―― 佐藤
なるほど。

―― 湯浅さん
食事に関して言うと、これだけ山のようにファストフード店やコンビニがあれば食事も何とかなるだろうと思うけれど、食中毒とか何かあったときに責任になると困るので、どの店も食べられない状態にしてゴミに出すんですね。私が携わっていたころ、渋谷で食べられる状態で廃棄ハンバーガーを出してくれる店は5店舗しかありませんでした。でも、この5店舗はみんな知っているから、なかなか入手できない。そのようにキャパを超えると、続々とこの場所から追い出されていくことになるんですね。

―― 佐藤
ホームレスの人が、さらに街から追い出されていくと。

―― 湯浅さん
そうです。人知れず消えてく人たちがいて、我々もその人たちをフォローしきれなくなってしまう。蛇口が全開のような状態なので、まずはこの蛇口を閉めないといくら支援活動をしてもきりがないと思ったんですね。じゃあ蛇口を閉めるにはどうしたらいいかと思って始めたのが、「もやい」という団体で、これはアパートに入居する際の保証人になるという活動でした。

―― 佐藤
いつごろにスタートしたのですか?

―― 湯浅さん
2001年ですね。今でこそアパートを借りるときに債務保証会社がデフォルトで付いていますけど、当時はそういうものが一切なかったんです。保証人は家族に頼むのが当たり前だったし、家族がダメな人は怪しい人に頼むしかない状況でした。道路上の捨て看板などに「保証人になります」と携帯電話番号が大きく書いてあって、もうそれ以外何も書いてない。でもそこに頼むしかなかったんですね。そこを解消しようと保証人になる活動を始めたら、まあこれがパンドラの箱を開けたみたいな状態になって、ものすごい数の依頼が来ましてね、まさに殺到という感じでした。

―― 佐藤
当時2001年だと、スマホもないし現在ほどインターネットが普及していませんでした。「もやい」という活動を湯浅さんが開始して入居時の保証をしてくれるという情報は、どうやって広がっていったのでしょう?

―― 湯浅さん
口コミのみですね。

―― 佐藤
口コミだけでそんなに広がっていくのですか?

―― 湯浅さん
ええ、今でも路上の一番の情報ツールは口コミですよ。普通にコミュニケーションを取れる方が多いので、皆さん上手に情報交換をしながら生きています。

―― 佐藤
そうなのですか。

―― 湯浅さん
それでワーッと広がってね。ただ私たちがほんとに驚いたのは、すでにアパートに住んでいる人からもすごく依頼が来たことです。次引っ越さなきゃいけないんだけど、保証人になってくれる人がいないとか、このままだと追い出されちゃうとか。そんなふうにたくさんの人が来たのですが、かなり若い人が増えてきました。路上生活者は50代~60代がほとんどですけど、「もやい」を始めてからの相談は、30代が同じぐらい多くなりました。しかも、元々は男性が多かったのに対して30代だと男女が半々ぐらいになった。だから女性もそのような状況になっているのが分かって、これはもうホームレス問題とは言えないと思ったんですよね。
その時に自分たちが向き合っている問題は何なのか、どう説明するのかと考えたときに選んだのが、「貧困問題」という言葉でした。

湯浅さんとの対談-2

対談はフェーズフリー協会の会議室でおこなわれました

"6,000万人目に届く情報" を意識して発信していく

―― 佐藤
それまでは、貧困問題という言葉は使っていなかったのですか?

―― 湯浅さん
はい。「もやい」でボランティアをしていたフランス人の留学生が、「なんで日本人は貧困っていう言葉を使わないのか分からない」って言うんですよ。彼女はその研究をしに日本に来ていて、新聞の調査もしていたんですね。彼女曰く、人に関して「貧困」という言葉が使われるのが、当時の朝日新聞で2年に1回なんですって。あとは政治の貧困とか芸術の貧困とか、そういう言われ方はするけれども、人の貧困問題っていう使われ方をするのが2年に1回だって言うんですよ。アフリカなどの貧困は別としてね、国内のものとして。

―― 佐藤
国内問題として人の「貧困」を扱っている記事がなかったと。

―― 湯浅さん
そうですね、そういう概念で何かを説明している記事がそもそもない。

―― 佐藤
それ以前は、ホームレスだとか路上生活者は、どのように伝えられていたのですか?

―― 湯浅さん
行政用語で言うと、生活困窮者ですね。

―― 佐藤
生活困窮者と貧困というのは、イコールですか?

―― 湯浅さん
私の定義だと、違います。どういうことかと言いますと、「困窮」は経済的な概念なので、要は所得の面で困っているということ。そこにもうひとつ「排除」という、仲間外れにするみたいな内外(うちそと)の概念があります。「貧困」というのは、経済的な困難と、この仲間外れがつながってしまった状態ですね。お金もないし、人とのつながりもない。それが実際結びつきやすいんです。現代日本社会で暮らそうと思ったら、友達と遊ぶためにもお金がかかりますからね。
でも、所得は低いけれどわざわざ田舎暮らしをして、みんな幸せに暮らしていますみたいな人もいる。そういう人たちって貧乏かもしれないけど幸せそうじゃないですか。なので、貧乏でも幸せな人はいる。だけど、貧困で幸せな人っていうのは、定義上はありえないと。

―― 佐藤
なるほど。湯浅さんが何とかしなくてはならない問題は、どちらかと言えば経済的な状況よりも、人とのつながりがない、その輪から外れてしまって、そこに苦しみやつらさを感じている人たちを支援するというということですね?

―― 湯浅さん
そうですね。

―― 佐藤
世の中にはいろんな課題や問題が存在していますが、どうしてそこに視線が向いたんでしょうか?

―― 湯浅さん
それはよく聞かれますが、結局は私自身の家庭環境に影響を受けているかな、と思いますね。
兄貴が障害を持っていて、兄貴の車いすを押して歩いていると、街中でジロジロ見られるんですよね。あの感じは経験した者じゃないと分からない。私が一人で歩いていても誰もジロジロ見ませんけど、車いすの兄貴がいるから皆さん見る。その見方もいろいろあって、本当にジロジロ見る人もいれば、見ちゃいけないなあって思いながらチラチラ見てくる人もいる。そういうなんとなく居心地悪い感じっていうのを経験していて、ホームレスの人たちってやっぱり、ジロジロ見られることが多いので、差別問題だという認識から入ったのはそのあたりが理由じゃないかと思います。今、振り返ってということにすぎませんけど……。
ホームレスの人たちは、道端や駅の通路とかで寝るしかないから、逃げ場がないんですよ。逃げ場がないのでジロジロ見られる視線にさらされ続ける。やっぱりあのイヤな感じを受けている人がいるっていうのは、自分としてとても耐えられないと思って。

―― 佐藤
そのバックグラウンドが、ホームレス支援というところに湯浅さんを方向付けたのですね。

―― 湯浅さん
振り返って見るとそうですね。でもホームレス支援に限界もあって、それがこども食堂につながるんです。限界といってももちろんいろんな限界があるんですけれど、大きかったのは「貧困問題」という視点で考えると、関わることができる人が限られてしまうということでした。

―― 佐藤
人が限られてしまうとは、どういうことですか?

―― 湯浅さん
だんだんとメディアにも取り上げられるようになって、2006年ころに「貧困」という言葉を使い出したら、それはそれは大きな反響があったんです。それで、毎日取材を受けてテレビにも出るようになりました。私の肌感覚からすると、100万人くらいの人がそうだそうだと賛同してくれているくらいの大きな感覚でした。私はどんな活動も最初は2~3人で始めていますから、100万人がそうだそうだと言ってくれるようになったというのは、当時の私の感覚からするとすごいことでした。

―― 佐藤
届き始めたと思いますよね。

―― 湯浅さん
でも、2009年から内閣府参与をやって、政策に関わって気づいたのは、100万人は人口の1%にすぎない。100万人がそうだそうだと言ってくれても、残りの99%が無関心だったり反対していたら、政策はつくれない、世の中は動かない、ということでした。

―― 佐藤
貧困という問題に関心がないということなのですか?

―― 湯浅さん
よく言われる「262」みたいな世界だと思います。すごくシンパシーのある人は1割から2割、そんなこと言うのは気に入らないみたいな感じの人も1割から2割、間の6割から8割の人は、ああ大変なんだねえって思ったり、社会のせいにするのはけしからんって思ったり、そういう感じだと思うんですよね。

湯浅さんとの対談-3

湯浅さんはこれまでの活動を通じたさまざまな実体験を話してくださいました

"しがらみ未満、SNS以上のつながり"が求められている

―― 佐藤
「6,000万人目に届く」とはどういうことですか?

―― 湯浅さん
目の前の人や賛同してくれる人に向けてではなく、一般の「6,000万人目に届く」ことを考えた上での情報発信です。そのために、参与を辞めてからの数年間は、それまでつきあったことのないような人たちとつきあって、その人たちからの見え方を学ぶことに力を使いました。大学教授になったのも、社会問題などに関心のない「ふつう」の学生さんたちから世の中がどう見えているか、それを教えてもらうため、フィールドワークするためです。そしてそろそろ多面的な見方ができるようになったかもしれないから試してみようと思って始めたのが、「ヤフーニュース個人」の連載でした。幸い、Yahoo!のトピックに取り上げられるような記事を書けて、その年の「オーサーアワード」をいただきました。多少、人に届く言葉を身につけられたかもしれない、と嬉しかったですね。

―― 佐藤
すごいですね。こども食堂に関わられたのは、ちょうどそのころですか?

―― 湯浅さん
そうですね、2016年です。こども食堂の活動は報道で知ってはいましたけど、実際に接点が生まれたのは、池袋で活動している栗林知絵子さんという方が十数年来の知り合いなのですが、彼女からこども食堂のことで相談を受けたのが直接関わるようになったきっかけでした。

―― 佐藤
栗林さんは「もやい」でも活動していた方ですか?

―― 湯浅さん
栗林さんは、私が昔開催していた市民活動の養成講座の1期生なんです。市民が自分たちで活動するとはどういうことかというプログラムを受けていた人でした。ただ、それ以前からメディアではこども食堂のニュースを見ていて、これはすごいことだと思っていました。

―― 佐藤
こども食堂というシステムというか、仕組みがですか?

―― 湯浅さん
はい。やはり貧困問題というと、堅くて難しいと敬遠する人が多い中で、「こども」と「食」という誰もが関心を持つテーマを組み合わせて、とても敷居が低く、とっつきやすい形での取組みをつくり、実際に広がり始めている。一気に今までの限界をブレイクスルーする発明品だって思いました。これはすごいと思って、それでこれを広めようと。

―― 佐藤
なるほど。

―― 湯浅さん
広めるときに、貧困問題を前面に言ってしまうと広まらないので、こども食堂が持っているもう一つの側面である、「地域の人たちをつなげる」という側面を、今の社会が必要としているものとして打ち出していくことを徹底しました。それから7年ずっとこれに関わっている感じです。

―― 佐藤
こども食堂は、貧困というものを打ち出さずとも、地域の人たちがつながれるというのも発明だと。

―― 湯浅さん
そうですね。誰かと一緒に過ごしていると、例えばニコっと笑った時に歯がない、口ん中えらいことになっちゃてると気づけるわけですけど、まず一緒に過ごすということがないとそこに気づけない。その一緒に過ごすっていうベースが、地域や社会から失われているんですよね。でも、そのためにこども食堂をやりますっていうと、みんなそこに行くと根掘り葉掘り探られるんじゃないかと行きたくなくなっちゃう。あくまでも地域のベース、基盤としてのつながりが大事だと明確に打ち出すことで、結局は貧困対策にもなるんです。貧困対策が目的だと言ってしまうと、いろんな人を構えさせてしまう。

―― 佐藤
貧困対策が目的だと表立って言ってはいけないのは、すごく分かります。なぜなら防災も同じだからです。備えましょうと言い続けても、結局は多くの人が備えられずに問題は解決しないんです。備えられないのは別にサボっているのではなく、日常の暮らしに懸命で、いつどのようなことが起こるか分からない災害にコストを割くことはなかなか難しいんですね。

―― 湯浅さん
なるほど。

―― 佐藤
備えることが難しいのであれば、備える提案をやめようと思ったんですね。その代わり皆さんがふだん使っているモノやサービスなどが、日常の暮らしも豊かにしつつ、実は非常時にも役に立ったら、結果として備えられていなかった人たちも守ることができる。そういった社会をつくった方がいいのではないかと思ってスタートしたのが『フェーズフリー』だったんです。

―― 湯浅さん
素晴らしいですね。そのロジックはよく分かります。

―― 佐藤
湯浅さんの貧困に対するアプローチと、『フェーズフリー』の災害に対するアプローチって、すごく似ていると思うんです。貧困と災害というテーマこそ違いますが、両方ともその目的を表立っては言わずに、対象者がいかに参加しやすくするかという点からスタートしている。

―― 湯浅さん
それは似ていますね、確かに。ありがとうございます。

―― 佐藤
こども食堂のこれからの展開は、どのように考えているのですか?

―― 湯浅さん
近い目標は、中学校の数を超えることです。中学校は全国に9,100校ありますが、こども食堂は毎年増えているので今年か来年には逆転するかもしれないです。そうするとこども食堂は中学校の数より多いんだと、インフラ感が出てくるんですよね。

―― 佐藤
こども食堂がインフラ的に中学校の数より多くなるほどの原動力というのは、やはり地域やまわりの人たちとつながりたいという思いですか?

―― 湯浅さん
そう思います。最近は「人々は『しがらみ未満、SNS以上のつながり』を求めている」と言っています。

―― 佐藤
面白いですね。「しがらみ未満、SNS以上のつながり」。近年は特にシェアという言葉や概念が浸透していますが、それに近い気がします。

―― 湯浅さん
そうですね。こども食堂もある意味、そのような場所かもしれません。

―― 佐藤
湯浅さんの話を聞いてきて、災害も貧困も、同じところに要因があると感じました。いろんな問題って結局、脆弱な人や場所に被害が起こってしまうという。

―― 湯浅さん
おっしゃるとおりです。それは間違いない。

―― 佐藤
脆弱性が高いほど、被害も大きくなります。『フェーズフリー』はこの脆弱性を小さくするという考え方ですが、湯浅さんの活動と『フェーズフリー』のリンクを感じることなどはありますか?

―― 湯浅さん
ある杖が雨の日は傘になるみたいな、こども食堂はそういう面があります。ふだんからつながりがあるから、コロナのときにもフードパントリー活動ができた。ふだんのつながりがなければ、絶対にできませんでしたね。災害時に生活支援拠点になるこども食堂もいっぱいあって、周辺住民に炊き出しもいろんな場所でおこなわれています。それら全部ふだんのつながりがあるからできるわけで、そういう意味ではこども食堂は『フェーズフリー』だと思いますね。

―― 佐藤
日常時にも非常時にも個々人の生活が支えられるという意味でも、『フェーズフリー』ですよね。またそれが湯浅さんが裏目的としている、貧困という非常時を解決することにも直結している。

―― 湯浅さん
そうですね、言ってみれば、その人の非日常的な思考に訴えても人々は動かないので、日常的な思考の中にその解決法を入れるという、「思考のフェーズフリー」でもあるわけだ。

―― 佐藤
本当にそうです。今日は貴重なお話をありがとうございました。

―― 湯浅さん
ありがとうございました。

湯浅さんとの対談-4

約2時間の対談を終えタッチする湯浅さん(右)と佐藤

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