佐藤と奥山さん

前仙台市長
仙台みどりと風の会 会長

奥山 恵美子さん

東日本大震災発生時に仙台市長として、さまざまな困難に向き合いながら復興に尽力した奥山恵美子さん(以下:奥山さん)。昨年に開催した第1回フェーズフリーアワードに続いて2回目となる今回も審査委員を務める奥山さんと、フェーズフリー協会代表理事の佐藤唯行(以下:佐藤)による対談が、震災遺構「仙台市立荒浜小学校」で行なわれました。東日本大震災から10年以上が経過し、現在は『フェーズフリー』の活動に携わる奥山さんが、今考えることとは?

※対談はマスクを装着し行っておりますが、撮影用に一時外している場合がございます。

写真・文:西原 真志

奥山さんとの対談-1

奥山前仙台市長との対談は、震災遺構「仙台市立荒浜小学校」の交流活動室をお借りして実施されました。4階にある教室の窓外には、津波が押し寄せた形跡が今なお色濃く残っています

ハザードとは、“恩恵”も“災害”ももたらすもの

―― 佐藤
第1回フェーズフリーアワードでは、審査委員としてご尽力いただき本当にありがとうございました。奥山さんとの対談も2回目となり、今回お話をする場所を奥山さんに選んでいただきました。この震災遺構「仙台市立荒浜小学校」という場所を選ばれた理由を教えていただけますか?

―― 奥山さん
そうですね。この仙台市の海辺にある荒浜という地域には、東日本大震災の前には2,500人ぐらいの方が居住されていて、この学校はその子どもたちが日々通っていた場所なんです。被災時にこの小学校の避難所に逃げたことで助かった方が320名ほどいらっしゃるのですが、大きな津波からその方々の命を守った学校であるということがまず大きな理由です。

―― 佐藤
そうなのですね。

―― 奥山さん
この学校でそれだけの人が助かることができたのは、荒浜地区の人たちが、普段から何かがあったときのことを考えていたからなんですね。自分たちは海べりに住んでいるのだから、地震や台風などの際には何か大変なことが起こるかもしれない、それにはどうしておくべきなのかと考えていた。そして震災発生前の防災訓練の中で、それまでは1階に置かれていた備蓄品の食料や水、毛布などを、全部学校の上の階に運んで濡れないようにする工夫をしていたのです。そのおかげで、被災時に2階まで完全に水没したにも関わらず、あの寒い中で毛布などをみんなで使うことができた。やはりコミュニティの力というのは、有事に急に出るのではなくて、何年も前からずっと考えみんなでやってきたからこそ、あのたった一日の中でその力を生かすことができた。行政の力ももちろん大事ではありますけれど、やはりそこに住んでいる方々の力が何よりだということを、実感として私に教えてくださった。そのように、私にとっても学校であったというような記憶とともに、今日はここで佐藤さんとお話をしてみたいと思ったのです。

―― 佐藤
ありがとうございます。学校内はもとより、未だ周辺にも震災の傷跡があり、改めて私自身も考え直させられる思いです。
1年ほど前の奥山さんとの対談(※1)で、奥山さんが非常時に何が一番大切なのかというと、「信頼できる人がそばにいること。普段から話し合える人間関係やコミュニティみたいなものがすごく大切なんだ」とおっしゃっていたのが印象に残っています。震災時に、荒浜の320人ほどの方々の生活を救ったのはコミュニティの力だったというお話でしたが、そのコミュニティの力は、この荒浜地区でどのように生まれ育まれたとお考えですか?

―― 奥山さん
一つは、結婚してここへ来る人はもちろんいますけれども、この地域には外から来る人があまり多くないことです。例えば仙台市郊外に増えている高層住宅エリアのように、そこに新たに入ってくるわけではなく、ほとんどのご家庭が先祖代々ここに住んできたのですね。それによって自分たちが住んでいる地域、生まれた場所である荒浜という所に、故郷であるという強い誇りがあるのです。海が近くて夏は泳げるし、木々が茂る林の中は秋になるとキノコも採れるし、お月様もキレイに見えるし…というような。また郷土料理とか、たくさんの思い出とともに育ってきたすごく大切なところに自分たちは住んでいるという気持ちをお持ちなんです。
ただそうは言っても、海が近いという魅力も、津波の危険は仙台市の中で一番強いといった課題にもなるわけです。自分たちが誇りに思っている場所だからこそ、何とかハンディを乗り越えたいという気持ちが強くなります。私たちは今4階の教室にいますけれども、そもそもここの地域の子どもたちは非常に数が少ないので、2階建てで十分だったのです。でも、鉄筋コンクリートで津波が来ても耐えられる建物といったら、荒浜では学校しかない。だから荒浜小学校の校舎を建てる際に、高い学校を建ててほしいという、それも地域の人の希望なのですよね。そういうことを考えながら、ハンディを乗り越えて暮らしていこうと。

―― 佐藤
なるほど。

―― 奥山さん
何もかもメリットだけの町っていうのはなかなかありえず、いろんなメリットとデメリットは背中合わせですから、その背中合わせのものを、みんなの仲間の力によって乗り越えようって気持ちがあったことが荒浜という地域の特性であり、それがいざという時にお互いの力を引き出したんじゃないかって思っています。

―― 佐藤
この荒浜において受け取っている海などの恩恵は、時には牙をむき出して私たちに襲いかかってくるものだということを、きちんと理解しながらここに暮らしていたってことなんですね。

―― 奥山さん
そうです。荒浜に生まれても、ここでずっと生活しなきゃいけないという何か強い縛りがあるわけではないんですよね。特に若い世代は、仙台などで仕事をしていたら、自分の家を借りるなりしてもっと都心部で過ごすこともいくらでも可能だしもちろん現にそうしている人も多くいらっしゃる。そういった中でもここに残った人たちは、やはりそのハンディを上回るメリットを、自分の中に持っていたから選んだと思うんです。その選んだことに対して自分の持っている力を還元していかなくてはここを支えられないという、そういった気持ちが、表と裏と両方からあったのだと思っているんです。

―― 佐藤
その意味では何か、日本の縮図みたいなものかもしれませんね。私は海外での生活も多かったのですが、海外の人たちからすると、どうして佐藤、災害の多い日本に住んでいるのかと言われることが多々ありました。

―― 奥山さん
(笑)

―― 佐藤
これだけ地震や活火山も多くて、さらに毎年台風で被害に遭って、なんでそんなに災害が多いところに住むんだ? と突きつけられるんです。だってヨーロッパは地震ないよ、台風来ないよと。

―― 奥山さん
外国の方はもう皆さん、すごく怖がりますね。仙台に来て初めて震度2ぐらい揺れただけでもう、何か世の中の末だ、世紀末だ、っていう顔になる。私たちにとってはこれ、普通のことなんですけれどっていうね。

―― 佐藤
本当ですよね(笑)。なぜそこに住むのかという問いには、私も奥山さんと同じような説明をしています。ハザードというのは災害ももたらすけれど、実は私たちはそのほとんどを恩恵として受け取っているんですよね。
例えば火山であれば、地下資源が噴出してそこで鉱物だとか風光明媚な景観を創り出したり、そこで温泉に入れたりもする。台風だって、気団がせめぎあうことで春夏秋冬が生じて、四季折々の恵みを感じ、豊かな生活ができる。そんな恩恵を我々は日本という場所において受け取っている。それがたまにハザードとして災害を起こすこともありますが、そことうまく折り合いをつけながら暮らすことが必要なんだろうということを私はよく言ってきました。まさにこの荒浜地区は、もう少し小さなエリアでそれらをきちんと感じながら、暮らしてこられた方々なのでしょうね。

―― 奥山さん
例えば渡り鳥が来たとか何かが獲れるシーズンが来たとか、その場所で日々暮らしている人しか見たり感じたりすることのできない自然というものがあって、そのようなものへの愛着心は強いですよね。日本人の一番の特質って、そのような自然を人生のパートナーのようにして大切に暮らすことだと思うんですね

―― 佐藤
この荒浜に限りませんが、今までいろんな地域で自然の恩恵を受けながら、さまざまな危機とも折り合いをつけてどうにか豊かな暮らしをつむいできた。でも、今回の東日本大震災では、それをかなり上回るものが来てしまった…。

※1 前回記事:https://jn.phasefree.net/2021/10/26/interview-aw06/

東日本大震災から10年。10年というのは、風化が始まる時間でもある

奥山さんとの対談-2

荒浜地区の模型を見ながら、奥山さんは被災状況を説明して下さいました

―― 佐藤
奥山さんが仙台市長を務めていらっしゃった2011年3月11日14時46分、つまり東日本大震災の発生時には、何をされていたのですか?

―― 奥山さん
まさに、議会の開会中でした。13時に始まって17時まで開かれるのですが、ええ、あれは15時直前でしたので、ちょっと休憩で廊下に出た時でした。議員や関係者が一堂に集っていたことは安否確認に時間を取られずにある意味で幸運で、すぐに閉会して次の行動に移りました。

―― 佐藤
仙台では地震による揺れよりも津波による被害が甚大でしたが、状況の凄まじさを把握されたのはどのタイミングだったのですか?

―― 奥山さん
すぐでした。私は発災と同時に災害対策本部に入りますので、電気も通じ情報も入ってきていました。NHKのヘリコプターからの映像で、この荒浜に近いエリアを津波がのみ込んでいく光景がリアルタイムで映し出され、その甚大さを知りました。

―― 佐藤
信じることができない光景でした…。

―― 奥山さん
津波は揺り返しが心配ですから、陸上からは誰も近づけない状況でした。該当エリアの方々に内陸側に逃げる指示を出すものの、救援に向かった警察官、消防団員、市の職員等で、住民の方とともに亡くなった方々も多くいました。

―― 佐藤
仙台空港にまで浸水しましたね。

―― 奥山さん
大きな飛行機が、まるでミニチュアのように流されていきました。

―― 佐藤
奥山さんとお話をしていて今、自分が防災に真剣に取り組みだした頃を思い出しました。1995年、私が大学院生の頃でしたが、1月17日から日米都市防災会議が大阪で開催される予定でした。世界中の防災学者が大阪に集まっているなか、阪神淡路大震災が発生しました。僕はそれを経験して、ガラッと価値観が変わったんです。その、それまでの考え方が、すごく甘かったなと。
奥山さんはずっと行政、そして首長として仙台を見てこられて、さまざまな災害対策や防災計画を積み上げてこられた。でもそれらの想定をはるかに上回る災害が発生してしまいました。その津波を見て、黒い水の下で多くの亡くなってしまう命を見た時の、その感覚とはどのようなものだったのでしょうか。

―― 奥山さん
どうにかしたいけれど、できることは限られる。悲しいことはたくさんありましたけれど、私が悲しんでいてはいけない。自分の気持ちはとにかくシャットアウトして、できることをとにかくやらなくてはいけないとだけ思っていました。そして、できることを一つでも二つでも増やしていく作業を延々と行なっていく。時間の経過とともに、やるべきことも必要になることも大きく変わっていきますから。

―― 佐藤
そうですね。震災発生時からその当日、翌日、さらには1週間、1ヶ月と、手がけるべきことも求められることも変わっていきますよね。

―― 奥山さん
とにかく命を救うことから、食料やライフラインの整備、そこから普段の生活へと戻していかなくてはならない。

―― 佐藤
東日本大震災から11年が経ち、またこの3月に大きな地震が発生し東北新幹線も長期間ストップするほどでした。そういった現状で、数十年後、いや数百年後かもしれないですけれど、また大きな危機が襲ってきて被害を極力抑えるためには、どうしたらいいのだろうと考えることはありますか?

―― 奥山さん
全体としてどうしたらいいのかという明確な答えはありませんが、この11年目に再び大きな地震がありましたね。地震のエネルギーとしては、(マグニチュード)9.1と7.4という規模の違いはありますが、体感としてはかなり強かったです。そのような体験を経て思ったのは、やはり10年経つとハード面での進化があるということでした。建物や通信、電気やガス、道路など、あらゆる面においてかなり向上していると実感しました。

―― 佐藤
確かにそうですね。

―― 奥山さん
一方で、10年は風化が始まる時間だということも強く感じました。知り合いの例では、分かってはいたけれどもタンスの上に載せていた荷物が落ちただとか、私の住むマンションは地盤が悪いせいもありますが、次の週とまたその次の週には壊れた食器や家具がたくさん出されていて、そうか、ここだけでも山のようにモノが壊れたんだっていうのが如実に伝わってきました。

―― 佐藤
各テレビ局の報道フロアの映像も出ていましたけれど、東日本大震災と同じように机の上のモニターもバタバタバタバタ倒れて…。いつも同じような光景が繰り広げられてしまっている。

―― 奥山さん
本当に変わらない。今の住宅の話で言えば、個人の家庭での対策というのは、結局10年経過すると風化してしまっている現実があるんですね。『フェーズフリー』的に言えば、ハード面だけでなく普段の暮らしそのものをレベルアップしないと、高齢化も進んでいますし対策は進化しない。なかなか住宅メーカーにもそういった観点がありません。フェーズフリーアワードでそこに応えるような応募があるといいですよね。

『フェーズフリー』をもっとインタラクティブなものにしたい

奥山さんとの対談-3

津波で多くの命を失い建物が流された荒浜地区を見る奥山さんと佐藤

―― 佐藤
先ほど奥山さんがおっしゃいましたが、私たちはいろんなハザードと密に接しながら、生活の知恵のようなものを育みつないできました。それら一つひとつを改めて見直してみると、意外と『フェーズフリー』の種のようなものは多いのではないかと思います。

―― 奥山さん
そう思います。

―― 佐藤
昨年の授賞式後に行われたシンポジウムで、奥山さんが「『フェーズフリー』とは?」の問いに答えて下さった言葉を覚えていますか?

―― 奥山さん
忘れましたね(笑)。

―― 佐藤
「気づいたら防災だった」って。そんな『フェーズフリー』をさらに広げていくには、どうしたら良いと思いますか?

―― 奥山さん
確かに「気づいたら防災だった」ですね。やはり『フェーズフリー』は、ハード面の向上だけではなくって、個人の生活をインタラクティブに、その意味とか良さとかを共有していく必要があると思うんです。与えるばかりではあまり意味がないし、そもそも与えられたものは面白くないし、10年も経つと忘れるし、役所がやっていることは嫌だし…みたいな(笑)。だからインタラクティブになるような関係をつくっていく仕組みが『フェーズフリー』やフェーズフリーアワードのどこかに、ビルトインされればいいなと思いますね。

―― 佐藤
なるほど!

―― 奥山さん
最近は料理レシピのサイトが多くありますが、いろんなつくり方をいろんな人が投稿しているんですよね。一昔前ですと、お料理の先生がいてこの料理はこうつくるんですって模範解答を示していましたが、今は模範解答もあるけれど、私はこれが好きって選んでつくって共有もできちゃう。

―― 佐藤
そうですね。そのインタラクティブというところは自分も目指していて、どうやって双方向で価値を高めていくかというのはテーマです。

―― 奥山さん
まずは何よりも、佐藤さんが『フェーズフリー』という言葉を思いついたことが、本当に素晴らしいことなんです。やはり人間は言葉がないと気がつかないんです。
そういったことを共有できる人間関係やコミュニティーが形成されていったらなお良いですね。また今後はさらに、高齢者や生活弱者を意識した『フェーズフリー』な提案が増えていったらさらにワンダフルだと思いますね。

―― 佐藤
それ、本質だと思っています。ユニバーサルデザインやバリアフリーを横軸だとすると『フェーズフリー』は縦軸で、社会の状態をフリーにするもの。つまり、日常時と非常時の状態をフリーにして、どちらの状態でも安心して豊かに暮らせるという人と社会の状態なんですね。
でも本当に描かなくてはいけないのは、斜めのラインなんです。要は、障がいのある人が非常時でも豊かに暮らせるという、この斜めのラインを描いていく必要がある。この斜めのラインというものが、『フェーズフリー』の本質的な部分になっていくという気がしていて、それを見つけていきたいと思っています。

―― 奥山さん
期待していますよ。

―― 佐藤
今日はこの震災遺構「仙台市立荒浜小学校」という場で、貴重なお話をさせていただくことができました。ありがとうございました。

―― 奥山さん
こちらこそありがとうございました。フェーズフリーアワードもよろしくお願いいたします。

―― 佐藤
引き続きお力添えを、よろしくお願いいたします。

奥山さんとの対談-4

対談を終え現在は震災遺構となっている仙台市立荒浜小学校校舎前で記念撮影をする奥山さんと佐藤

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